史上最強の哲学入門 (飲茶)
- 作者:飲茶
- 発売日: 2015/11/05
- メディア: 文庫
この本では哲学史を、真理・国家・神・存在の4つに対する探究の歴史として、非常に簡潔かつ読み易くまとめている。また、刃牙風にキャラを立てて、哲学者を紹介していて楽しく読める。
哲学的な議論というのは、それまでの歴史的な議論の積み重ねを前提としてなされることが多いので、こういった本で概略を掴んでおくのは大事だと思う。
真理の『真理』
この章では「絶対に正しいと誰もが認める命題 (真理) は存在するか?存在するとしたらそれは何か?」という問いに対するチャレンジの歴史が語られる。
プロタゴラス / ソクラテス
プロタゴラスは、全ては人の感じ方や価値観次第であり、絶対的な真理などというものは存在しないという相対主義をとなえた。相対主義を貫徹すると、プレゼンがうまいやつの主張が通る世界となってしまう為、何が真理であるかよりも、どんな主張でも押し通す議論のテクニックが重視された。
ソクラテスは、こういった議論のテクニックを身につけた、いわゆるソフィストに対して、無知の知をベースとした別の議論のテクニックをぶつけることによって、どんな主張にも必ず矛盾や思い込みが隠れていることをあらわにした。
デカルト / ヒューム
デカルトは、全てを疑い尽くして、それでも疑い得ないものがあればそれが真理であるというアプローチ (方法論的懐疑) によって、真理を目指した。そして「自分が何かを思っている」ということ自体は絶対に疑いえないという事に気づき、そこから「我あり」という結論を導き出した。有名な「我思う故に我あり」だ。しかし、なぜかその後の議論では疑う事を忘れてしまい、私の存在は確実なのだから、私が明晰に理解したり認識するものも確実に存在するとか、それどころか認識が正しい根拠として神様まで持ち出してしまう始末。全てを疑おうとチャレンジしてみた点は評価できるが、その疑いを完遂することは出来なかった。
デカルトに出来なかった方法論的懐疑を完遂したのがヒュームだ。彼は、「我思う」における我 (自我) とは何かという問題をしっかりと考えた。デカルトは自我とは、肉体を離れた独立した存在のように考えたが (デカルト的心身二元論)、そうではない。自我とは様々な知覚 (経験) の集合を時間的に繋げ合わせることによって生じている擬似的な感覚にすぎない。自我は全て経験によって形作られており、それが本当の現実と一致しているかどうかに関してはなんの保証もない。ヒュームは自我だけではなく、神や科学の絶対性も否定した。ここで西洋哲学の経験論は完成し、一つの頂点を迎える。
カント
ヒュームの懐疑を真正面から受けとめ、それを乗り越える真理を見つけ出したのがカント。カントの考えはこうだ。
ヒュームの言うように、すべての知識や概念は人間の経験が作り出したものにすぎない。しかし、それならば、どうして数学や論理学といった、経験を異にする人間同士で通じ合える学問が存在するのだろうか?経験によって概念が作られるなら、多くの人間は別々の経験をしているはずなので、それぞれ異なる学問体系が乱立していてもおかしくないはずだ。でも、そうなっていない。
人間は経験から知識を得ている。だが、その経験の受け取り方には人間という生物の特有の形式があり、それは経験によらない先天的なものである。先天的な形式の例としては、人間はなにかを見る時、必ず空間的・時間的にそれをみることなどが挙げられる。そして、この人間特有の認識の形式に基づく範囲内では、みんなが合意できる普遍的な概念 (真理・学問) が作り出せる。
ただし、それはあくまで人間という生物にとっての真理だ。人間はモノ自体には到達できない。人間の形式に変換されたあとの世界=現実の世界だけに探究の範囲を限定すべきでだ。真理とは人間によって規定されるモノである。これはプロタゴラス的な人それぞれに異なる真理ではなく、また、普遍的/人知を超えた真理でもない、人類共通の真理という意味だ。
ヘーゲル / キルケゴール / サルトル / レヴィ・ストロース / デューイ / デリダ
この三人は、カントが規定した人間の認識の限界の中で、真理に到達する方法を考えた。
ヘーゲルは 弁証法 ≒ 闘争 ≒ 歴史 によって真理に到達できると考えた (歴史的真理)。
キルケゴールは歴史によって到達できる真理ではなく、個人が命を捧げても惜しくないようなモノが真理だと考えた (個人的真理)。
サルトルは両者を止揚して、歴史的真理を個人的真理にすることを推奨したが、レヴィ・ストロースに、そんな真理は西洋中心主義の傲慢な思い込みだと批判され、あえなく失墜。
レヴィ・ストロースの構造主義、デューイのプラグマティズム、デリダの読み手中心主義などによって、結局、相対主義に戻ってしまう。誰もが真理であると認めるような真理は存在しないと。
レヴィナス
私の真理を否定する他者という存在をクローズアップした。
他者は現代哲学のキーワードの一つで様々な意味で使われるが、私の主張を否定してくるもの、私の権利や生存に全く無関心なもの、私の理解をすり抜けるもの、思い通りにならないもの等々、ようするに他人的な性質を持つものをすべてひっくるめて他者と呼ぶ。
もし、他者がいなければ真理に到達しうる。他者がいるから真理に到達し得ない。しかし、逆に他者がおらず、真理に到達してしまったらその後はどうなるか?何も新しい発見のない閉じた世界になってしまう。他者がいるからこそ、新しい可能性、新しい価値観、新しい理論を人間は無限に創造し続けていくことができる。この様に、真理を求める気持ちと、それを容赦なく否定する他者とのせめぎ合いが、人間に自由と創造性を与えているんだよという、なかなか良いオチ。
国家の『真理』
あまり興味を持てなかったので簡単にメモ。
- プラトン: イデア論、イデアを知ることができる優秀な哲学者が王になるべき。哲人政治。
- アリストテレス: 政治体制を君主制 (1人の王が支配)、貴族制 (少数の特権階級が支配)、民主制 (みんなで支配) の三つに分けて、君主制は独裁制になりやすく (王様が好き勝手やって国がボロボロ)、貴族制は寡頭制になりやすく (権力争いをやって国がボロボロ)、民主制は衆愚制になりやすい (みんなが政治に無関心になって国がボロボロ) と整理した。
- ホッブズ: 社会契約説。国家とは個人の自由を預かって、安全を保障するシステム。
- ルソー: 人民主権。大多数の幸福をもたらさない国家は解体して作り直してしまえば良い。
- アダム・スミス: 道徳感情論と国富論 (神の見えざる手)
- マルクス: 共産主義。資本主義はみんなを不幸にするシステムなので必ず破綻する。
- 資本主義の強さと新自由主義。そして来るべきルソー2.0。
神様の『真理』
ギリシャ時代のエピクロスは、神はいるかもしれないけど気にしなくて良いと説き、イエス・キリストがキリスト教を始めて、アウグスティヌスがキリスト教をグローバルな宗教にし、トマス・アクィナスが宗教と哲学の棲み分けを行った。
ニーチェ
神とは弱者のルサンチマンが作り出した虚構にすぎない。神への信仰が、人間本来の生を押し殺してしまっている。弱者が自分を慰める為に、弱いこと・負けることの方が良いという倒錯した価値観や幻想を作り出した。
素直に強さを欲する事を「力への意志」という。「力への意志」のままに、強くなる事を目指す人を「超人」と呼んだ。
「超人」の反対は「末人」。「末人」とは何も目指さずに生きている人間のことである。彼らは健康と良き眠りだけを求め、穏便に人生が終わる事を願って、なんとなく生きていくだけの存在である。
存在の『真理』
現象学には興味をひかれたが、カントが言ってることからあまり進歩していない気もする。メルロ=ポンティとか読んでみると良いのかもしれない。