読書メモ

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ゲンロン 10 (悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題)

ゲンロン10

ゲンロン10

要約

  • かつて何千何万もの人々が、尊厳も財産も奪われ、モノのように扱われ、殺されて「処理」された土地が、今は住宅地に生まれ変わっている。
  • 大量の人々がゴミの様に殺される大量死の時代から、大量の人々がゴミの様に生み出される大量生の時代へ。どちらの時代でも、交換不可能な個が匿名化され、交換可能なモノとして扱われる点で共通している。これを抽象化と数値化の暴力と呼ぶ。
  • 数値化の暴力に対抗するために必要なのは、固有性の回復、意味の回復だ。
  • 被害者は、加害に意味を求めるが、加害者側を分析するとそこに理由や目的はなく、愚かで無意味だ。被害者の側からすると、その無意味さに耐えることができない。だから、そこに事実とは異なる物語が生まれても、それは被害者が回復するためには必要な物語だ。
  • 加害者は害をなす。被害者は害をなされる。加害者は害の無意味を気にしない。そして忘れる。他方で被害者は害の無意味に耐えられない。だから害に意味を与えて記憶する。
  • ではその時、加害の無意味さの記憶は、言い換えれば、悪の愚かさの記憶は、いったいどこに行ってしまうのだろうか。
  • 加害者側の責務は、加害の無意味さそのものの断固たる記憶にあるのではないだろうか。人が、人を、まったくの気まぐれで、何の計画も意味もなく殺すという、その愚かさを記憶することに。
  • 悪をどう記憶するか。実証を並べるのが第一段階で、意味を回復するのが第二段階だとすれば、おそらくは、その先にもう一つまた別の戦略が必要な第三段階があるのだ。
  • 全てを記号とパズルに還元してしまう探偵小説的な想像力こそが、加害の愚かさを意味に回収することなく記述できるという「思いつき」に妥当性はあるだろうか?
  • 1980年代の村上春樹は、おまえの小説には歴史がない、現実に直面しろと言われ続けた。名前と意味を回復しろと言われ続けた。その批判に対して、1990年代の村上は、歴史と現実に直面するとは決して名前と意味を回復することではなく、井戸に潜ることなのだと答えた。
  • 井戸に潜るとは、団地の下に暴力の残滓や有害廃棄物が大量に残っていて、それがいつ流れ出して全てを押し流すかもわからない、その可能性を思い出すということだ。
  • 加害側に立つのか被害側に立つのかの二項対立 (収容所 ⇔ 博物館) ではなく、井戸に潜って悪の愚かさについて記憶し続ける (団地とその地下に気を配ること) という選択肢がありうるのではないか?これが本論の主張だ。

感想

悪とされる行為や行動パターンを行動科学的なロジックで説明することによって、悪を自然災害であるかの様に扱うこと。これは、本論で言われている「抽象化と数値化の暴力」そのものだし、倫理的にも嫌われるプロセスだ。しかし、悪を工学的に扱い、スマートでサステナブルな悪にするという意味で、検討の余地はあるのではないか?というのは私が考えがちなことだ。そして、これがまさに本論で言うところの「団地化」だ。団地化の何がダメかというと、個人が匿名化されて透明な存在になってしまうことによって様々なストレスが生まれ、社会問題化していくが、それらをケアスべきコミュニティも団地化によって崩壊しているため、どんどん社会が壊れていくこと。で、本論では、収容所/団地に対抗するだけではなく、井戸に潜るという選択肢も考えろという。分かるような気もするが、私は井戸に潜ることよりも、よりスマートな団地化の方法を考えてしまいそうになる。続きを読もう。